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千影の武人としての誇りの覚醒、殺人拳の誇りを抱いて活人拳の道を拓いた陽炎。
弟子たちの言葉と、己の中の殺人拳としての誇り。
ケンイチのテーマの一つとして、弟子は勿論成長するものであるけれど、
弟子を導く事で師もまた成長するというものがあります。
今回、ケンイチと死闘を繰り広げた一影九拳の弟子たちが、
師匠にこの戦いの意味を、武人として命を賭けるべき死地であるか、
それを弟子たちが師に問います。
件名の言葉は、ケンイチシリーズを読んでいる方なら、
名前を書かずとも分かるハーミット事、谷本夏のものです。
彼は、守ろうと必死になっていた妹を、幼い頃に失っています。
通信機越しなので、師である馬槍月の状況が分かるわけないのですが、
いままさに、槍月の前で彼の弟であり長年の宿敵、
馬剣聖が命を絶たれようとしています。
そこで、この言葉が飛び出してきて、意味を為すわけです。
ここを読めただけで、なんかもう、色々、完全に満足してしまいました。


この作品の活人拳と殺人拳というのは、善悪とかではなくて、
完全にスタンスの違いであったりします。
殺人拳であるから必ず卑劣だったりするわけではなく、
逆に活人拳であるから人格者だったりすることもないのです。
三流の達人……達人で三流って言うのも変ですが、
そのクラスだと色々武人としての誇りのないのもいますが、
一流の達人たちは殺人拳であろうと活人拳であろうと、
その武人としての矜持はゆるがないものがあります。
活人拳の武人としての誇りと、殺人拳の武人としての誇りは、
人の命を奪う奪わないの差はありますが、供に等しいわけです。
武人の矜持を汚す久遠の落日の策に、
殺人拳の弟子・師匠たちが活人拳と供に戦います。
もう、この辺りを見られただけで、長年付き合ってきた甲斐があると思いました。
ただ、61巻を読んでみないとわかりませんが、
この辺り10巻くらい尺使って欲しかったです。
丁寧に色々積み重ねてきた作品だけに、とても惜しいところがあります。


ケンイチの最後の方の尺の無さは、明らかに編集部の意向にあるのでしょうが、
松江名先生の作品には付き合いますが、ケンイチ完結後は、
小学館の作品は二度と買う事はないでしょう。