史上最強の弟子ケンイチ 47 (少年サンデーコミックス)

史上最強の弟子ケンイチ 47 (少年サンデーコミックス)


9/10



逆鬼至緒と、本郷晶の因縁が明らかにされるこのお話ですが、
連載当初は彼ら二人の主義主張の違いなのかと思っていました。
鈴木という、彼らの人生を活人拳と殺人拳に分かつ、
重要なキーパーソンが現れるまでは。


アパチャイの時と同様、基本的には単行本でまとめて読む派の私ですが、
禁を破ってまたもや連載を追いかけてしまいました。
逆鬼、本郷、そして鈴木の三人は若き日に、切磋琢磨し己を鍛え上げていました。
恐らく、そのまま時が静かに流れれば、良き空手家が三人産まれたことでしょう。
ですが、鈴木の身は病に侵されており、卓越した武術の才を持つ彼は、
そのまま病に朽ち果てることを選びませんでした。
己の夢である、最強の空手家になるという望みを叶えるために。
殺人拳──闇──の招聘に応じた三人は、そこで殺し合い、
残った一人を闇の一員として迎え入れるという戦いを強いられます。
友人二人を想い、手を出せずにいる逆鬼。
命を燃やして己の武の到達を世界に刻み込もうとするが如く、
鈴木は二人に挑み、応じてくれた本郷と戦い──本郷は鈴木の意志を汲み──、
決死の覚悟の鈴木を相手に一切の手を抜かず、彼の命を戦いの中で消し去ります。
逆鬼は知っていました。鈴木が、空手を止めて静かに暮らせば、
長らえることができたということが。
そこで、件名の逆鬼の言葉がでるわけです。
この言葉を、本郷はわがままだと評しました。
ですが、私には逆鬼の優しさから出たこの言葉を、
否定することはできそうもありません。



逆鬼の友に生きていて欲しいと願う気持ちも、
本郷の空手家としての鈴木の信念に応えた気持ちもよく分かります。
どちらが悪いのではなく、その想いの量が完璧な均衡を保つ天秤のようであり、
私にはどちらかを選ぶ事が、結局最後まで読んでもできませんでした。
例えば私が物語を作ったとして、余命幾ばくもない人を救うため、
少しでも生きて欲しいシチュエーションであるなら、逆鬼の主張を使います。
その人が死に瀕して、世界にその磨き上げた武を示し、
信じた友に全力で応じることを望むのであれば、
本郷のように全力で戦い、その結果命を落とす事になる展開も使うでしょう。
逆鬼も本郷も、鈴木に対する友情は同じものであると感じました。
ただ、その方向性が完全に違ってしまっている事が、
彼らが戦い続ける原因であり、互いに譲れない因子なのでしょう。


それこそ、デウス・エクス・マキナでさえも、
この二人の思いを整合させることはできないと、
憂鬱に思いながらもあまり不快な気持ちにならないのは、
なぜなのかと考えて見ました。


善悪ではなく、逆鬼も本郷も彼らの戦いと意志と、
友への思いは、何人も否定できない、
純粋で貴く、哀しくはあるが、見る人に清涼な心持ちを与える、
本当にかけがえのないモノであるからではないかと。
拳魔邪神についても話したい所ですが、
彼の最期はともかく、これからやること、やったことは、
本郷と逆鬼の戦いと想いとは対局の──まさしく邪悪──、
と呼ぶにふさわしい、不快さに満ちたものなので、
次の巻で触れることにしたいと思います。