幻想水滸伝Ⅲ 9巻

幻想水滸伝3 9 (MFコミックス)

幻想水滸伝3 9 (MFコミックス)

原作の隙間を埋めるように、細かい部分の描写を丹念に積み上げていく姿勢に頭が下がります。私は愛想を尽かしてしまった口なのですが、先生は作品を愛しているのでしょう。ゼクセンとグラスランド、鉄頭と蛮族。そう罵りあって来た長い歴史を、昨日今日で水に流して忘れ去り、手を携えることなど不可能です。でも、あまりにも強大な敵が現れたいま、彼らは力を合わせねばなりません。ですが、それがわかっていても、容易に埋まらない互いの溝。そんな地道な描写を、丁寧に丁寧に積み上げていきます。
8巻でビュッテヒュッケ城に集まったゼクセン、グラスランドの民は互いにしこりを残し、この9巻でもそれはそのままであり続けました。トーマスは言います。「たとえ何年…何十年かかっても、少しずつお互いの関係を変えていけばいいんだ…少しずつ…」トーマスはお世辞にも強豪さを感じさせる外見ではありませんし、才走った知性を醸し出すようなタイプでもありません。しかし、彼は懐深く─甘いともいいますが─、希望を持って夢を諦めずに、待ち続けることを耐え抜く忍耐力を持っています。
そんな彼へのご褒美であるかのように、親睦の祭が終わった後、ささやかではありますがゼクセンとグラスランドの溝が埋まる─兆候とさえいえないささやかなものですが─、できごとがありました。そのできごとには、夢を見てもいいのでは…と思わせる未来が詰まっているように見えたのは、私の錯覚ではない、と信じたいです。

シルバーバーグ家の教育方針について語られるエピソードがありましたが、個々人の性格に合わせてそれにあった分野の策を延ばしていく、という教育のようです。しかし、アルベルトがレオンの後継者であり、シーザーがマッシュの後継者であるというには、やや二人とも足りないものがあるように思えます。過去の幻想水滸伝では、マッシュ・シュウの二人の軍師は、極めてシルバーバーグ的な(シュウは血族ではないのに)政戦両略を駆使してきました。そして、最強の軍師としてその名を欲しいままにした、レオンはまさしくシルバーバーグ的な軍師といえるでしょう。今回、シーザーは自分とアルベルトの違いについて、アルベルトは被害の大小に関わらず戦争終結を目的とし、自分は敵味方の被害を最小にして戦争を終わらせることを目的としている、と語っています。これは、ゲームでは語られなかったことです。ゲームでは、シーザーに違和感を憶えてはいましたが、これでシルバーバーグの末席にいても違和感がない程度には、私の中で存在感が増しました。ただ、アルベルトは否です。たかだかハルモニアで地位を得るために、ルックを利用した程度の男は、レオンの後継者ではありません。

志水先生が危惧しておられた、リビークの虫兵に対するクイーンの説得ですが、あのタイミングでは最善のものであったと私は思っています。たしかに、私があのルビークの民であったなら、あの説得でその場で動かされることはないでしょう。でも、きっと、9巻のような展開になると思います。人は悪人であることに耐えられるほど、強くはできていません。同時に、窮状において悪しき行いに手を染めてしまうことは多々あります。ですが、逆に、窮地に陥ったからこそ、良い行いをせねばならない、そう考えてしまうこともあるのではないでしょうか。私は人間が信用ならない、そういう人が信用なりません。なぜなら、あなたはなんであるのか?人間ではないのか…?という疑問が浮かぶからです。人である以上、人として最期までその矜持を真っ当しないのなら、人は人である価値など、微塵もないのですから…。