真・女神転生Ⅲ〜NOCTURNEからマニアクスへ〜コトワリ編

ボルテクス界は、世界を新たに誕生させるための子宮であり、産まれてくる新世界を導く考え、創世の指針となる思想を、コトワリと呼びます。物語の冒頭で、カグツチに心の中を覗かれるのですが、主人公はコトワリの芽生えすらなく、そのままでは創世ができないので、何者かになる準備をしろ…と言われます。で、シジマ*1・ヨスガ*2・ムスビ*3のコトワリに傾倒しない、独自の考えで…というよりは、かつての自由な世界を取り戻すルートを選ぶと、カグツチに「何もコトワリを持たないモノに、創世はさせられない」と戦いを挑まれます。

でも、その何もコトワリを持たない…と言われたEDこそ、真のEDなのではないかと思っています。何故なら、何も変わらない、ありふれた毎日が続くのだけれど、未来への道標は自身で選んで行ける世界…かつての世界と似ているけど、どこか…少し違う世界。だけれども、かつての自分・かつての友達・かつての先生を取り戻すことができるのですから。いや…多分、みな、それぞれに一概に成長とは言えないかもしれませんが、なんらかの変化があるはずです。そんなちょっとした一歩でもいい、人は毎日少しずつ前に進み続けることで、よい方向へ進んで行くモノだよ…そんなメッセージが、このEDには籠められているような気がします。ただ、主人公にしてみれば、「そんなちょびっと癒し系みたいなことで、俺はあれだけの(プレイ時間約30時間)冒険をさせられたのか!」って感じでしょうけど、まあ、あのEDを迎えた彼はそんな事は言わないでしょう。女神転生でこんな形のEDを用意したと言うことに、私は製作者サイドの、ゲームから通して出る強烈な危機感を感じざるを得ません(ちょっとZ風に)。特別であったり、超個人主義であったり、諦観から進むのを止めた人を、彼らは多く見過ぎたのでしょうか。それとも、肌で感じるような事があったのでしょうか?この辺りは私も危機感を覚える事柄なので、女神転生スタッフがそれをシナリオに盛り込まねばならないほど、世はそんな不安で満ちているのでしょうか…さてはて。

祐子先生は電波電波と言われますけど、あれは、ほら…アラディアが乗り移ってるからで、先生は別に電波じゃないですよ。ちょっと気になるのですが、祐子先生って巫女なんですが…世界を変革させる受胎の触媒になりうるほどなので、かなりの霊媒体質なのだと思いますが、ぶっちゃけ…どうなんでしょう。先生…主人公(教え子)に目を付けていた(様々な意味で)ってことは、その、あれですよね。

年下が好きなんですか(笑)!?


↓以下、コトワリ(シジマ・ヨスガ・ムスビ)の解説

*1:みんな歯車。世界を平穏に運営。でも、進歩も革新もないよ

*2:強い奴・綺麗な奴サイコー。他は死ね

*3:お前には干渉しない。だから、俺に干渉するな。一人で生きて一人で死ぬんだ